わたしが、なぜ父母の遺骨を東南アジアのメコン川に散骨した、その理由は。。。
ツアーでの散骨5

母の死
元旦の夜、母が逝った。

病院で待機している葬儀会社の言われるままに、つまらない式を行った。

いや、それは、もういい。

式に来た、坊さんが言った。
戒名に、
「最低でも、○十万円です」

葬式が、
なんだかとても白々しく思えた。
僧のお経も、ただの寝言。
誰のため、何のための葬式か?

いっぽうで、
自分で、あらためて母を送ろうという気持ちになった。


そして母をメコン河に散骨した日、
それは、わたしが、タイで生きていくことを決めた日でもある。

父の散骨は他人事にしか思えなかった。。。
母が亡くなる数年前に父の散骨をメコン川で行っていた。

私はタイ人の妻との結婚式をタイでおこなった。

重い糖尿病を患う父が、タイでの結婚式に来てくれた。

タイにやってきた父は、やせたというより、小さくなっていた。

父とメコン川見物に行くことになった。
わたしが住んいるタイのウドンタニ県から車で1時間ほどである。
川を渡れば、お隣の国ラオスだ。

メコン河は、全長4200キロ。
チベット高原を源とし、
中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム、そして南シナ海に流れる。

食事制限を無視して食べる父。
初めて食べる焼きナマズの香ばしさ、
エビの量の多さ、
もち米のおいしさ、
パパイヤサラダの辛さ、
いろいろなことに、
おどろき、喜んでいた。。
そして、
夕陽がメコンに落ちるのを、眺めていた。


タイから帰国して、1週間後に透析が始まった。
医師の話では、父のカラダは限界だったという。
そして、3年後に、父は死んだ。

父の葬式後、旅行会社から父あての封筒が届いた。
封を開けてみると、タイのロングステイを勧めるパンフレットだった。
そして、現地の透析が可能な病院のリストが入っていた。

母が言うには、
「タイへ移住したい、メコン川に行きたい」
と父は言っていたそうだ。

そのために、
斎場で、
「メコン川に散骨しよう」とわたしは、提案した。


お寺に収めるお骨は、立派な陶磁器に入れられたが、
そこからいくつかのお骨をわけて、ハンカチにくるんだ。

その1週間後に、父をメコン川に流した。。

メコン川の波間に、父の遺骨は消えていった。。。
父が流れて行ってしまうというのではなく、
海に流れ、やがて還ってくるというイメージなのだ。

しかし、
わたしは、タイで大学院に入学するなど、忙しくも、充実した生活のなかで、

この光景をどこか他人事として眺めていた。


ダメ息子
わたしは、タイでの生活を打ち切り、母の介護のために帰国した。
介護のことで、亡くなる直前まで母とは揉めていた。

介護施設で働いていたわたしは、他人の親には冷静になれるのに、
自分の親にはつい熱くなってしまう。
拳をあげ、寸でのところで止めたこともあった。。。

だからこそ、母が亡くなったことは、やるせない気持ちだった。

その時のわたしは自分の進路にも悩んでいた、
タイで様々な経験をし、そして結婚までしてるのに、
タイでやるべきことがわからない時期でもあった。

そんなわたしを、
「何が何でもタイで生きていきなさい」。
応援してくれたのは母だった。

母の介護のために日本に帰国しようとするわたしを、帰ってくる必要はない、タイに戻れと言ったのは母だった。
しかし、
わたしは、母の介護を言い訳に、そして、定職や定収入という世間体のために日本へ逃げてきた。
ダメ息子である。

母が死んだ今、もう誤魔化しはできない。
タイに戻る時が来たのだ。
しかし
タイで何をするのか?
タイの大学の看護学部に留学していたときのある教授の言葉を思い出した。

「おまえしかできないこと」

劣等生である私に、教授は一言。
「日本人であるお前が、タイで看護師になっても、意味がない。
タイ人のことはタイ人でもうできる。
別の道を考えてもいいのではないか。。。」
私は、もう大学をやめろという意味だと思っていた。
しかし、今思うと、
「わざわざ日本人であるお前がタイに来て、タイ人ができることをやっても仕方ない。」
つまり、ただの看護師になるために勉強しても意味がない、
「タイ人にはできない、日本人のおまえしかできないことをやれ」ということではないか。。。

「生まれかわる」
わたしは、「おまえしかできないこと」という言葉と、ともにある場面を思い出した。

ある患者さんが亡くなった時に、
タイではその鳴き声からトッケーとよばれるヤモリの鳴き声がきこえた。

「トッケー、トッケー、トッケー、トッケー、トッケー」。

それを聞いた周囲の人が、「ああ、彼はトッケーにうまれかわった」と話した。
その後もタイ人から「生まれかわる」という話を随分と聞いた。
それは、
わたしの心の奥底に眠っている漠然とした死のイメージを思い起こさせ、
なんだか懐かしい感じ
がした。

そして、
息を引き取った故人のまわりに、
家族があつまり写真を撮った。
印象に残ったのは、
残された人々が、
晴れ晴れ
とした表情なのだ。

その表情に、故人と送る人たちの普段の生活での関係が見えてくるようだった。

いっぽうで、
日本で介護施設に勤めていたときに、
わたしに、
逝く人はこんな表情をしてくれただろうか、、、。

生活の中で逝く
『生まれかわる』
タイ人から良く聞くその言葉は、生活にしみこんだ死への信条でもある。

しかし日本では、
「なんで死ぬのに、生きるんやろ」
そんな問いかけをされたこともあった。
死に対して、確たる考えもなく、
ただただ怖い、
と感じている人が多いのではないだろうか。
たとえ、
何らかの考えを持っていたとしても、
実際に自宅で、これから逝く人と生活をともにした人は少ないのではないか。
死を迎える場所は、ほとんどが病院であり、存命中でも限られた時間しか面会することはできないのではないか。

それは、一般の人だけではなく、死にむきあう医療・介護職という専門家、そしてお坊さんもそうではないだろうか。。。

いっぽうで、
タイでは、いまでも自宅で亡くなるのが主で、祖父母などのみとり経験のある人が多い。
医師や看護師などの医療関係者も同様である。
様々な人が、自分の生活の中で逝く人と生活し、そしてみとりを経験しているのだ。
これは、日本との大きな違いではないだろうか。

また、下の写真のように、お坊さんが、末期の患者さんや高齢者の病室や家庭にも訪れる。
そこでは、僧がストレートに死について本人とその家族に話をする。
それは、忌み嫌われることではなく、むしろ人びとに安心感をあたえている。
日本だと、亡くなる前に僧侶が訪れることはできるだろうか。
スライド30

スライド26



日本とタイの人で死生観を話してみる
「おまえしかできないこと」
「生まれかわり」
「生活の中で逝く」


これらから、わたしが思いついたのは、
逝くことに課題を抱えている日本の人々に、タイで人が逝く場を訪れ、
そして、
死生観についてタイの人々と話しあえないか。

死生観なんて難しそう、考えたこともない、、
でも、
別の国の人びとの死生観に触れた時、
写し鏡のように、
自分たちのことも見えてくるのかもしれない。。。

高齢の人や、その家族だけじゃなくて、
若い人、

また、
お医者さん、看護師さん、ヘルパーさん、
そして
お坊さん
に見てもらえないだろうか。。。

そして、
2016年2月に、
トヨタ財団から支援を受けて、以下のプロジェクトを行った。
「心豊かな『死』をむかえる看取りの『場』づくり─日本の西宮市・尼崎市とタイ国コンケン県ウボンラット郡の介護実践の学び合い」

日本でみとりにかかわっておられる3人の方にタイに来ていただいた。
『平穏死10の条件』などの著作がある、わたしの日本の地元の尼崎で開業している長尾医師、
西宮で介護者が集まる「つどいばさくらちゃん」をしている丸尾さん、
『70歳!』などの著作があり、僧であり、大学の先生、グループホームを経営している釈徹宗師、

タイのコミュニティーでのみとりを見てもらい、
また、みとりにかかわる地元の僧とも死生観について議論をしていただいた。
寺でまるちゃん、ウイリヤさん、長尾さん

その時の紹介記事①
その時の紹介記事②


2016年9月には、
タイの医師、僧も日本にこられ、日本のみとりの現状を見てもらい、以下のシンポジウムを開いた。
「このまちで生き、そして、死んでゆくために−−日本とタイの実践者からみとりの場作りを考える」
その時の紹介記事


死生観を体感する
2017年の5月、
お坊さん三人、そのうちお坊さんであリ医師である方が一人、そして、みとりまで行う家を立ち上げた看護師さんとでタイを訪問した。
今回は、『逝き方から生き方を創る』とテーマを改めた。
なぜなら、
彼らの逝き方は、普段の生き方での他人、それをとりまく環境との関係に支えられているのではないか。
たとえば、
隣人や家族との程よい距離感、
よろづ相談所のような開かれたお寺、
お金だけで働かない、
自分を大事にする、
庭・森・川などでとれる野菜、果物、魚など、
自分ができないことを、他の人が無料かわずかな報酬で請け負うこと、
などなど、、、

これらを体験するために、お坊さんがみとりにかかわるコミュニティーでホームステイそして、高齢者の方や病室を訪問したり、お寺で瞑想体験をしてもらった。

お堂で食事
おばあさん泣く
はるかが触れるおばあちゃん

しかし、まだ何かが足りない、、、
死生観を頭ではなく、体で感じることはできないか、、、
それは、
わたしが
「やがて、還ってくる」
という感覚を得たように
散骨をするのが良いのではないかと考え、
参加者の方に、メコン川で母の散骨を体験していただいた。

生まれかわるのは、、、、わたしだった。
ツアーでの散骨2

皆で舟にのり、メコン川の真ん中まで出ていく、、
土を運んできた水の色は茶色で、農業を支える豊かな恵みがつまっている。
おだやかな波間に花といっしょに母の白い遺骨が飲まれていく。


父の散骨の時に感じた「他人事」とは、雰囲気が違う。

母が残した言葉、
「何が何でもタイで生きろ」が響く。
父の夕日を眺める姿が目に浮かぶ。
そして
「やがて、還っていく」という感情。


生まれかわるのは、、、、

じつは、

わたし、、、なんだ!

残された人のしんどさや、希望が、
故人の思いに結びついたとき、

残された人に、これから新たに生きていくという気持ちが生まれる。

故人を思うことで、
今の自分が生きること。
それが、
『生まれかわり』
なのかもしれない。


そして、わたしは、いま、タイで生きている。


ーお知らせー
2017109日から14日です。
日本の人があまり知らない、

タイの東北部にあるナコンラチャシーマー県、コンケン県で
僧坊に泊まったり、ホームステイしながら、

お坊さんの指導によるマインドフルネス(瞑想)指導、
お坊さんと病院が協力する在宅でのみとり、
湖や川での散骨体験などをしていただきます。

詳しくは、

をご覧下さい。